文学は何の役に立つのか?
平野 啓一郎
岩波書店
2025年07月18日頃
概要
文学は、私たちの人生や社会に対して、どんな意味があるのだろうか。人間の生を真摯に見つめ、現代の問題群に挑み続ける小説家が、文学の力を根源から問う。大江健三郎、瀬戸内寂聴ら、先人たちの文業にも触れながら、芸術や社会へと多岐にわたる自らの思考の軌跡をたどる。読者を新たな視座へと誘うエッセイ・批評集成。 1 文学の現代性 文学は何の役に立つのか? 死までの遠近──ジョブズ、私の友人、ハイデッガー 初めてゲラを手にした時 予測不能な世界を生きるために──『本心』連載を終えて AIで亡き母を蘇らせたら また新たな基礎的教養書の登場 ──キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等──人生の成り行きは変えられる』 予期せぬことがなくなって──アンケート「予期せぬ笑い」 初めて真剣にワインを飲んだ日 傷ついた人間の痛みを語り抜く意志──ハン・ガン氏のノーベル賞受賞に寄せて 崩れ落ちてゆくような成熟──金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』 “納得”することの他者性──遠野遥『改良』 奇妙な一年 作家と百年──『文藝春秋』創刊百周年に寄せて ゼロ年代のドストエフスキー 〈影響〉の構造化と愛──『白痴』(ドストエフスキー)を中心に 三島戯曲の世界──フランス語版三島由紀夫戯曲集Le Theâtre selon Mishimaに寄せて 2 過去との対話 個人と国家、そして諦念 鷗外の政治思想──『阿部一族』論 父子──古今名作散歩 体験、証言、記憶──成田龍一『「戦争経験」の戦後史』 恢復と自己貸与──ハン・ガン『すべての、白いものたちの』 事後的に発見され、新たな起点となる──私と安部公房 「日本」について質問された人──追悼 ドナルド・キーン 天性の人の語り手──瀬戸内寂聴さんのこと 瀬戸内文学の再評価に向けて──追悼 瀬戸内寂聴 「踏まえるべきもの」の絶えた時代に──追悼 古井由吉 大江以後も書き続けるということ──追悼 大江健三郎 戦後民主主義と文学 『オッペンハイマー』論──オッペンハイマーとクリストファー・ノーランの倫理 3 文学と美 「国家」と「自然」 新しい辞書のための四つの言葉の定義──ことば、ぶんじん、カッコいい、あい メビウスの輪を歩く人間──写真と安部公房 二度目の「さようなら」はなかった 実在を追究しないことの自由 領域としての黒──ヴァロットンの木版画 ボードレールの女性観──その一元性と多元性 豊饒なるゲルハルト・リヒター展 愉しいル・コルビュジエ 音楽も環境次第 「手書き」の文字と毛筆 「報酬性」と「懲罰性」 特別付録──弔 辞 ドナルド・キーンさんへの弔辞 瀬戸内寂聴さんへの弔辞 大江健三郎さんへの弔辞 あとがき
ステータス
読んだ
メモ
【目的】 元から、著者の「分人」という概念に興味があったことに加え、最近は小説欲が強いため、せっかくならと選書。読後は同著「小説の読み方」も読んだ上で、小説を楽しみたい。 学びのある小説も存在するが、現代執筆されるものの多くは、その上部を掬い取ったような作品であるように感じる。その見分け方、あるいは上部から中枢を学び取る術を知りたい。 →エッセイ集のようなものだったので、それぞれにコメントをメモとして残す。 エッセイ集で350ページあるため、盛り上がっては切れ、盛り上がっ…
【目的】 元から、著者の「分人」という概念に興味があったことに加え、最近は小説欲が強いため、せっかくならと選書。読後は同著「小説の読み方」も読んだ上で、小説を楽しみたい。 学びのある小説も存在するが、現代執筆されるものの多くは、その上部を掬い取ったような作品であるように感じる。その見分け方、あるいは上部から中枢を学び取る術を知りたい。 →エッセイ集のようなものだったので、それぞれにコメントをメモとして残す。 エッセイ集で350ページあるため、盛り上がっては切れ、盛り上がっては切れ、の連続であり、私の知識不足も相まって読了には時間を要した。短い文章は、具体説明や解釈を読者に委ねることが多く、それを掴み取ろうとするのは楽しかったが、いかんせん、量が膨大だった。 【追記メモ】 現代における、関係性の哲学 著者概念である「分人主義」の源泉? 文学の価値というものは、「学び」というよりも、キャラクターとの感情の「共有」なのかもしれない ○文学の価値 ⑴そもそもの存在としての価値 ⑵思想/発想の発散 ⑶共感の場 ⑷問題(作品テーマ)を俯瞰的にみられる (テーマに対して多様なキャラクターが関与するため) ⑸「生き方」を考える場 【メモ】 Ⅰ.文学の現代性 5.文学は何の役に立つのか “今の世の中で正気を保つため” 7.「役に立つかどうかは、価値の中の一つの基準でしかない。役には立たないけれど、価格に見合うだけの価値のあるものは沢山あります」 (「役に立つか」という問い自体がそもそも適切ではない可能性がある。) (現代では資本主義に振り回され、経済的、時間的余暇の不足により、文学を読まれることが減っている) 11.「社会の機能の一部になるということについて、僕たちには、手段としてこき使われていて嫌だ、という感覚がある一方で、しかし、社会の中で自分が何らかの「役に立っている」という実感を得て、承認願望が満たされるという安堵も覚えます。」 (それを極端に表したのが、村田沙耶香『コンビニ人間』) (支配を安心とする考え方は持っていたが、資本主義の歯車として存在することによる、自身の存在意義の確立、承認欲求の充足という考えにはなるほど) 17.「個人が文学が好きだから勉強したいという問題と財政問題が、或いは社会の中で本当にそれが役に立つかということが、短絡的に議論されているわけです。」 (現代では「役に立つ」が、個人の活動が社会全体に与えるコスパやタイパで考えられるようになっている) (しかし、本来は社会に貢献しているから存在してよいというわけではなく、人間であれば基本的人権があるように、存在自体は尊重されるはずである) 22.「アートというのは、人間がサルかヒトかようやく区別がついたくらいの頃から──それをアートと呼ぶかどうかはともかく──延々と続いてきた人間の営みです。」 (「アート」も「文学」のような立場にある) (アートの場合は、そこから生まれる思想や発想が中長期的に国家にとって大きな活力になるという点で役に立っていると言える) (しかし、コンプライアンスを盾にした、表現の不自由さ[過度な批判、社会システムに基づく排除]はこの活力を減退させるいるのではないか) 24.「僕は本を読み始めて、非常にそれに救われました。 なぜかと言えば、先ほどのアートの話と同じように、文学は、「今ここ」という自分の実存の限界状況から解放してくれるからです。」 26.「今であれば、インターネットがありますから、「今ここ」の状況から解放してくれる世界は若者にとっては珍しくないかもしれませんが、当時の僕にとっては非常に大きなことでした。」 31.「他人(文学作品のキャラクター)を経由することによって、僕たちは、自分では引き受け切れないけれど本当は感じとっているものを言葉にすることができる。」 (一般論で、不倫は認められないが、不倫をテーマにした文学について話す場合、ある種同情のように「不倫する気持ちも理解できる」と内在している気持ちを語ることができる) 文学には、読んでいる時の他者への共感と、読み終わった後、読み終わった人同士が文学を介することによってより自由に、或いはより寛大に共感し合うという効果があります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ◉↓以下短編集 ○死までの遠近──ジョブズ、私の友人 ○初めてゲラを手にした時 ○予測不可能な世界を生きるために ──『本心』連載を終えて ○AIで亡き母を蘇らせたら (自身の存在も把握できていない人間が、人間を作ろうとしている。AIにも「分人化」(専門AI)が起こる。人間は人間(汎用AI)を作ることでヒトを理解することはできるのだろうか。そもそも、この社会がそれを作ることを赦すだろうか。AIは人工知能と呼ばれるが、この命名自体に問題があるとする議論もある。AIはどこまで行っても、情報の複合体でしかない。パターン学習、パターン化を得意とするが、それは過去から学習しているにすぎない。AIは未知を作ることはできないのだ。そして、老いることも(劣化することも)できないのだ。 ○また新たな基礎的教養書の登場 ──キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等──人生の成り行きは変えられる』 p64.「個人の〝幸福〟に於ける遺伝の影響という難題に対し、本書は極めて周到な議論を展開しており、今日の私たちにとっては必読書と言うべきであろう。」 (“遺伝”はどこまで重視されるのだろうか。遺伝がその人の人生を左右することはもはや否定できない。その人の特性全てが遺伝に左右されると言っても過言ではない。顔、身体、性格、その全ては大小、遺伝の影響を孕む。そんな中で、社会はどう接するべきか。現代において社会は、その遺伝格差を拡大させる。変革期には大きな不利益を被る人物の発生も免れないが、遺伝によるハンデを補う施策は考え続ける必要があるだろう。出る杭を打つ施策ではなく、凹みを押し上げるような施策だ。) ○予期せぬことがなくなって ──アンケート「予期せぬ笑い」 (子供の頃は、誰かがくしゃみをしただけで笑いが込み上げる。赤子に至っては何か音がなっただけで大笑い。しかし、大人になってからというもの、一発ギャグで笑えないことも増えてきた。“刺激”に慣れてしまったのだろう。人は意外性に笑いを覚える。だから、予期せぬことは面白い。 ゲーテ『親和力』によれば、人の性格は何によって笑うかで示されるそうだ。才人は万事を笑うべきこととみなし、賢者は殆どをそうとは思わない。賢者は、分かりきった事をどう笑えるだろうか。また、それに意外性を見出せるのも才人ならではなのかもしれない。) ○初めて真剣にワインを飲んだ日 (なぜこの文章を「文学は何の役に立つのか」という本に挿れた?エッセイ集だから良しとしたのか?出典は日本経済新聞。内容は、フランスのワイン品評会にて、自身はなかったが、自分が高評価したものが金賞を取ったというもの。味の表現、語彙について語りたかったのだろうか?それとも、単に穴埋め或いは味覚自慢? 強いて学びを上げるならば、“語彙”はツールであるということ。表現する術を広範に持つ事で、自身の中での解像度も上がる。世界の色を繊細に見るためにも語彙を磨く必要がある。それが文学の中で得られるということかな?) ○傷ついた人間の痛みを語り抜く意志 ─ハン・ガン氏のノーベル文学賞受賞に寄せて 73.「韓国人はこうだ、ああだというステレオタイプの偏見を語る前に、『少年が来る』を一冊、じっくり読んでみるべきだろう。文学の存在意義を、再認識させてくれる作品である」 (メディア上で見聞きする人物像はイメージに過ぎない。その人物の内面を事細かに描写されたものを読む事で、より本質的な人物像が浮かぶだろう。文学は表面的には分からない、異文化の人を理解するために有効なツールとなりうる。) ○崩れ落ちてゆくような成熟 ──金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』 (読書は時に“生き方”の再考をさせる。何故、私はここにあるのか。主人公と共に、主観的にあるいは客観的に、人生を見つめ直す機会をくれる。) ○〝納得〟することの他者性 ──遠野遥『改良』 奇妙な一年 (“納得”とは何によってなされるのだろうか。大きくは自己由来と他者由来の二つがあるだろう。自己由来は「欲望」に従う納得。他者由来は「目的」や「社会規範」に従う納得。特に他者由来における納得の「目的」には「強制」から身を守るということも含まれる。強制に刃向かえば自分の命が危険に晒される可能性もある。精神衛生の観点からもヒトは強制に対して納得したふりをする。これは無意識に行われるもので、諦観だともいえる。 現代社会における権力構造にも、「納得」の如何は大きく関係しており、現代人が何気なく行っている“納得”を言語化しようと試みたのが本著『改良』である。ワインの話で書いたようにヒトは表現方法の多様化により物事の解像度を上昇させる。この言語化というアプローチによって、“納得”という何気ない行動の在り方に新しい解釈を広げることができる。文学はヒトが生き方を再考する機会をくれる。) ○奇妙な一年 (小説に終わりはあるのだろうか。ゼロ年代にそう囁かれたが、今でも小説は世界中で書かれている。20年代のパンデミック、10年代の大震災、00年代の同時多発テロ、歴史的な出来事は私たちの生活を大きく変える。たとえ出来事が一瞬でも、節目となったその一年はその先何年にも渡って轍を残す。その一つが時間と空間の感覚だと筆者は言う。私たちの生活はとめどなく変化しているのだろう。それを扱う小説に話の種が尽きるということもないだろう。未来を望めば不安ばかり、けれどだからこそ、小説が求められているのではないか。) ○作家と百年──「文藝春秋」創刊百周年に寄せて ゼロ年代のドストエフスキー (人生100年時代と呼ばれる現代。時の流れも大きいスケールで見られるようになっている。文学は異なる時代をつなげてくれる。人が生きられるのが50年だとしても、ある2人の50年を合わせれば100年を見ることができる。また、人の組み合わせによって見える100年は変わる。文学に限らないが、創作はある程度開かれた領域だ。その時代を生きる人が、感じるそのままを表現する。創作の可能性はその自由さにこそあるはずだ。門戸は十二分に開けておきたい。) ○ゼロ年代以降のドストエフスキー 95.「平成とは、時代自体が「自分探し」をずっと続けていた時代だった」 98.「(本に対して)自分を日常から完全に解放してくれるような、何か強烈な体験を求めていました。」 102.(ボルヘス『永遠の歴史』より)「神話とは英雄を通じて人間の理想像を描くもの、それに対して、近代小説は、人間の失敗、挫折を描くのだという」 109.「苦しい、辛いと登場人物にしゃべらせても、読者はあまり共感してくれないのですが、苦悩を語る主人公の身体がどういうふうに反応したかという描写を細かく積み重ねていくと、読者はものすごくこたえる。それがリアリティだと思って/それを書かないことによって、読者がシリアスな主題を受け止めることができたということもあったと思います。」 116.「自分らしく生きましょうというメッセージとコミュニケーション能力を高めましょうというメッセージが同時に発せられている中で、今の若い人たちは悩んでいます。けれど社会が多様であるためには、僕たちはまず内的に複数化され、多様でなければいけないわけです。」 (読書目標に「うわべだけの作品」について触れたが、うわべだけに見えても、その文章は少なからず時代に影響を受けている。著者が何を理想とし、どのような時代を見ているのか、著者自身が意識せずとも表れるように思う。) (「論破」は日本特有の文化ではないか。対話不信と言われるが、最終的に一方に同調するのではなく、対話を交わし続けるとは何か考える必要がある。) (身理主義。身体の反応が先で、人間の情動は後だとする考え。形が意味をつくる、客体が主体をつくる、というものを後押しするようだと感じた。) (人の性格は状況によって変わる。分人性が基本だとして、裏表があるくらいの方が深みのある多面的な人間像になる。小説では整合性を取るために一辺倒な性格になりがちだが、トルストイのような小説家はそれを書き分ける。) (自分をひとつのイデオロギーに固定してしまうと、分人性、つまり内的な多様性がなくなり、対話自体が難しくなる。) (人間関係は元来、非対称的である。何かを決定する際に生じている対立のことを“政治”と呼べるのではないか。政治的な首尾一貫したイデオロギーとして“討論”するよりも、日常的な関わりの中で自分の意見が再構成されていくような“対話”が現代には必要) ○〈影響〉の構造化と愛 ──『白痴』(ドストエフスキー)を中心に (“影響”と“言語”は不可分に結びついている。言語は記号を伴い他者と交換されるため、影響を及ぼす。) 128.「〈影響〉関係に於いて小説を読解するとという試みは、そのような創作の原初的な段階に作品を一旦還元してから分析する方法だとも言えるでしょう。」 (小説中の登場人物は固有名詞でラベリングされているが、その輪郭は作者によって与えられているに過ぎない。創作されるまでは、作者の内面にある混沌とした属性の集合にすぎない。それらを解釈しようとすることが、人の分人性を理解するのに役立つ) 128.(ドストエフスキーは影響を“受ける側”と“与える側”の両義性を意識した作家) (影響源と影響は両義的で、影響源に影響を受けた存在が、第三者にとっての影響源となり影響を与えることはよくあること。) (また、外的な影響のみならず、“内的な影響”も存在する。気質や持病など肉体的条件がファクターとして自身に影響を与えることもある。人は、内的外的影響の中で動揺し続け固定的ではない。) 135.「人間は、過去からの〈影響〉によって現在を生き、未来の死からの〈影響〉によって「何一つ無駄にしない!」生を命じられます」 (文学は“生命を取り戻すため”のものではないか。ドストエフスキーは死刑宣告から特赦を出された。この経験は彼に死の先行体験をさせている。これにより、ハイデガー「存在と時間」にあるように、何一つ無駄にしないようにしようとする“生の本来の在り方”が獲得される。ヒトは経験によって人らしさを得る。文学は追体験という形でそれを支援する。) (“否定的受容”と“受動的受容”) (前者には愛がある。受動的受容から〈影響〉を受けることはないが、否定的受容からは〈影響〉を受けることがある。また、それに対して議論を行うことで、否定的受容者に対して〈影響〉を与えることも可能である。) (〈影響〉とはつまり、分人の構成比率に変化を与えるものである。過去や未来、情報が〈影響〉を与えることがあるが、それを対人で行うのものの一つが“否定的受容”である。) ○三島戯曲の世界──フランス語版三島由紀夫戯曲集Le Théâtre selon Mishimaに寄せて 143.「過剰演出は、観客が言葉に留まり、言葉から出発する想像力を阻害してしまうのである。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Ⅱ.過去との対話 ○個人と国家、そして諦念 150.「(森鴎外の『舞姫』は)大変な名分だが、今の読者には「読みにくい」と感じられており」 ○鷗外の政治思想──『阿部一族』論 ○父子──古今名作散歩 160.「私は父との葛藤というものを一切経験せずに大人になった。そのため、昔から、フロイトの所謂「エディプス・コンプレックス」という理屈が全然ピンと来ない。」 ○体験、証言、記憶──成田龍一 164.「(コロナ禍で)私たちは未知の体験をしたが、しかし、その戸惑いの中には、一種の既視感もあった。一つは、一般市民と専門家が有している情報の非対称性である。/またメディアにも玉石混合の情報が溢れていて、肝心の専門家の意見でさえ、一体、何を信じていいのか、見極めに苦労した。また、日々、新たな知見が加わり、情報が更新されていくテンポも速かった。」 「中には真偽の疑わしいものもあり、また、大いに文脈依存的だった。」 →「インフォデミック」 (歴史の伝承「体験」「証言」「記憶」の三位一体であり、それぞれ「実体験、その記録、それを読んでの解釈」とそれぞれ分かれる。) 171.成田龍一「現在と過去との往復のなかで、自らの記憶を絶対化することなく、また公刊戦史に全面的に依拠するのでもなく、その経験を確かめようとしており、「戦争小説三部作」では、戦争経験が「記憶」として書き留められ、思想となり行くことが噛みしめるようにして記された」 171.「「体験」の絶対化の否定と、既存の資料の検証が、「記憶」の時代に、多くの書き手にたいして、「戦争経験」を開いたことは事実であり、私のような人間が「書ける」と感じたのも、そのためだったが、否定的な意味では、当事者性と専門性に対する尊重は雪崩のように崩れていって、現在の混乱状況に至っている。それでも私たちは、歴史に関与し、今後も読み、書き続けることが求められている。なぜなら民主主義国家の政治主体として/国家のあるべき姿を見定め、行動がする必要に迫られているからである。 ○『「戦争体験」の戦後史』 恢復と自己貸与──ハン・ガン『すべての、白いものたちの』 173.「この物語には自身の境遇を重ねたくなることがあり、それは恐らく、読者にとっても同様であろう。読者は誰も、作者と同じではなく、主人公と同じではない。しかし、作品は他者としての読者を受け容れる大きな器であり、そのために、それ自体が充実していなければならない。それは実は、本作に内在する主題そのものでもある。」 176.「死んだ他者のための、愛を以ての自己恢復こそが、作者を「少年が来る」執筆後の精神的な危機から救済するに至ったのではないか。」 (“人は忘れられた時に2度目の死を迎える”とよく言われる。人の証言(生と体を貸し与える、自己貸与)により故人の存在を「よみがえらせる」。その際、証言する人は空虚であってはならない。自らの生を恢復させ、つまり人間味ある状態にし証言しなければ、個人の存在はよみがえらない(具体化しない)。 (自身の存在感があって初めて、過去に関する証言が現実味を帯びる。) (生ある言語(証言)は、過去や他者を受け入れる器である。それ故に、その過去や他者はそのものではなく、器ごとの色がついている。貸与がなされても、その基礎は固有の自分自身であることに変わりはない。) ○事後的に発見され、新たな起点となる ──私と安部公房 178.「分人化という現象を否応なく可視化したのがネットだった」 179.「社会に多様性があり、流動性がある以上、人間は自然と、対人関係ごと、場所ごとに分人化する。しかし、社会秩序は、法律を基礎として、人間を「個人」という分割不可能な単位(individual)に統合し管理することを前提にしている。」 (現代において、SNSアカウントを一人で複数持つことのように、人間の本質は分人的であると示されているにもかかわらず、社会制度は人に対して特定のラベリングを行い、単一の存在として扱う。現代人は“分人化の拡散力”と“社会維持のための個人の統合圧力”との狭間で綱引きされている。) ○ 「日本」について質問された人 ──追悼 ドナルド・キーン (同じ日本文学でも、読む人の背景によって感じ方は変わる。前提となっている決めつけ、常識の外から観ることが、作者が論理的な気づきや新たな気づきをもたらすということを体現している。作者が日本語で感覚的に行なっていたことを、英語の解釈から紐解くことと可能である。) ○天性の人の語り手 ──瀬戸内寂聴さんのこと 189.「御年九十歳の瀬戸内さんは、医者からは、「元気という名の病気に罹っている」と診断されたそうだが、今はもう、瀬戸内さんの言葉の中にだけ生きている故人たちは、その「病気」のお陰で、変わらず生き生きと「元気」な姿を保っていられるのである。」 (この文章がとても好みだった。医者の言い回しはもちろん、ハンガンの“恢復と自己貸与”と繋がる話である点も気に入っている。故人の存在は語り手である瀬戸内さんを介して現世にある種永遠的に存在している。そして、その存在に生き生きとしていると感じられるのは、器である瀬戸内さん自身が生き生きとした生の実感を自覚できているからであろう。) ○瀬戸内文学の再評価に向けて ──追悼 瀬戸内寂聴 ○「踏まえるべきもの」の絶えた時代に ──追悼 古井由吉 198.「現代日本語は、近代以降、翻訳を通じてヨーロッパの言語による変革を、語彙に留まらず、概念や構造の次元から受けている。」 198.「私たちは、本を読んで納得する。心を動かされ、認識の変化を経験する。しかし、それは必ずしも論理の力だけではない。」 (文の調子や流れ、音によって、経験することもある。翻訳においては、意味に注意をしすぎると、「音律」を乱してしまう事もあるため、古井さんはこの点に拘っていた。) ○大江以降も書き続けるということ ──追悼 大江健三郎 戦後民主主義と文学 202.「私は、他者を語る際、意識的・無意識的に、自分の都合の良い言葉にしてしまうことで、他者を他者でなくしてしまうという問題を常に非常に警戒していて、(大江さんに2006年の対談で聞いていた。)」 203.(大江氏)「自分自身を書くことが、文学世界に一つ新しい他者を提供することである」「文章を書くこと自体の力によって、死んだ他人に客観性を与えることができるという気持ちもある」 ○戦後民主主義と文学 (「世界一透きとおった物語2」で言及があったものと、厳密には異なるだろうが、確かに作家とは孤独な存在のように感じる。170.記載の成田さんの概念のように、歴史を“証言”することは重要なことであると同時に、ある種の業を背負うようなものだろう。) ○『オッペンハイマー』論──オッペンハイマーとクリストファー・ノーランの倫理 209.①時間概念の整理 「近代以降、社会の機能的分化が可能となったのは、中心化された、この直進的で、均等に分割された、一なる大きな標準時間のお陰である。これによって、/全てが統合された全体として運動し続ける社会構造が実現した。」 212.②時間の逆行 「不可逆的な時間を生きている私たちが、過去との関係を維持する方法としては、一つに記憶があり、また一つにメディアによる記録がある。」 214.③映画の時間 「映画は、時間芸術である。幕開けと閉幕という、映画としての始点と終点があり、その間に、カット、場面、シーケンスと積み上げられてゆく二時間前後の経過がある。」 215.④ノーラン作品に於ける時間 (“TENET”や“メメント”において時間を主題として扱っているが、作品として成り立たせる以上、タイムマシン的な巡行逆行がメインで扱われている。カセットテープの巻き戻しのような逆回転逆行はTENETにおいて演出的に用いられるものの、言語を逆行、逆さにしてしまうと言語は無意味なノイズになってしまうためアクションシーンに限定される。) 217.⑤因果関係のおかしさーー『メメント』 「ノーランは、どうしてこんな込み入った時間構成を採用するのか?/本質的には、因果関係のおかしさを主題歌するためである。」 (ミステリでも似たようなことが言える。時系列を行ったり来たりする事で、事件の因果関係を混乱させる。また、こういった時間操作は読者に対しドーパミンを発生させやすいように思う。) 240.(12)『ダークナイト・トリロジー』 「『バットマンビギンズ』の最後で刑事のゴードンが語るのは、「警察が半自動小銃を使えば犯罪者も使う」という“いたちごっこ”であり、バットマンの存在こそが、ジョーカーのような存在を生み出してしまう、という逆説である。」 (ダークナイトはそれを理解してか、結末としてはバットマンを面の英雄にしない、自己犠牲を通じて平和をもたらしている。) 251.(15)ノーラン作品の自己言及性 「思想的な側面を中心に、ノーラン作品を論じてきたが、何と言っても、彼の超エンターテイニングな魅力は、ド派手なアクション・シーンを初めとする、映像的・音響的興奮にある。」 252.「(思想的な側面について)ノーランの作品には、常に、映画制作そのものに纏わるメタレベルの自己言及がある。」 (『ダークナイト』においては、“正義の暴力”という存在が、“悪の暴力”を要請するというおかしさ。) (『インセプション』においては、映画と現実は別物であることを主題に置いておきながら、監督が魅力的な映像に仕上げれば、仕上げるほど、観客は映画と現実の境界を曖昧にしてしまうというおかしさ。) (ノーランが『オッペンハイマー』最後まで批評的に描いたのは、メタ的にこの作品が観客に与える“インセプション”つまり影響を気にしてのことだった。オッペンハイマーが広島長崎を気にかける描写を徹底して排除したのは、オッペンハイマーが単なる英雄としてインセプションされるのを恐れ、オッペンハイマーの倫理的欠陥について、批評的に扱うためだったと言える。) [付記] (1964年に、被爆者で物理学者の庄野直美とオッペンハイマーが“非公開”で面会していた) 258.「オッペンハイマーが「涙滂沱たる状態」で、ひたすら「ごめんなさい、ごめんなさい。」と謝るばかりだったと証言している。/しかし、庄野との対面は、飽くまで非公開が前提の場であり、その涙の謝罪の意味は、少なくとも彼の「責任」の観点からは過大評価されるべきではなく、戦後の公式的な言動と合わせて、総合的に評価されるべきであろう。」 (バットマン的自己犠牲の観点から考えれば、公式の訴えよりも、非公開の訴えの方が真意が現れているのでは無いだろうか。しかし、オッペンハイマーの心情は到底、本人にしか分からないものである。) (タイムマシンの概念が広まったのは、1895.H•G•ウェルズ「タイム・マシン」以降だそうだが、現代においては一般化している概念のでも、当時の衝撃は凄まじかっただろう。一度知ってしまったら、知らなかった時の私には戻れないというような。“過去”という概念をヒトが深く捉え直す契機になったことは間違い無いだろう。それにしても、このようなことを初めに思いついた人は何を食べたらこうなるのやら。) Ⅲ.文学と美 ○「国家」と「自然」 261.チェジェウン「環境破壊が進んでも、自然は死滅しないだろう。ただ、私たちが知っているのとは、まるで違った姿になるだけで。絶滅するのは結局、人類の方である。」 (国家は私を管理する。自然は私を知らない。災害という形で我々に暴力を振るう自然をどう愛せというのか。しかし、自然は美しい。自然は私の名さえ知らず、さも無関心に種の淘汰を“進化”として受け容れる。自然と私はいかにして関わっていくのだろう。) ○新しい辞書のための四つの言葉の定義 ──ことば、ぶんじん、カッコいい、あい ・言葉→世界から受け取り、事故に於いて編み、また世界へ受け渡すもの。また、その行為 ・分人→個人の構成単位 ・カッコいい→「しびれる」ような整理的興奮を伴い、模倣・同化・所有願望を掻き立てられた人が、その対象を評して用いる語。 ・愛→短期的でダイナミックな「恋」に対し、継続的でスタティックな概念。親子愛や郷土愛といった言葉は親子恋、郷土恋と言い換えることはできない。また、「恋愛」とは関係の成就を契機とした、恋と愛との一連の運動であり、相互の状態へと移行したがる性質がある。 ○メビウスの輪を歩く人間 ──写真と安部公房 267.「人間は都市がなければ生存できないが、都市もまた人間がいなければ存立し得ない。この無機物と有機物の連続性を担保しているものこそが、国家への個人の存在の「登録」である。」 (写真は年の一部として匿名化された人間を切り取る行為。小説は人間の顔を正面から見据え、その内面を描き、個人を個人として輪郭づける行為。) 271.「写真撮影は、まさに言葉と対照的であり、相補的な作業で、両者はメビウスの輪のように繋がり、人間はその不安定な表裏の転換を、心細く辿り続ける。」 ○二度目の「さようなら」はなかった 273.「「カッコいい」は戦後文化を牽引してきた一つの強力な価値」 276.「「カッコいい」とは、つまるところ、しびれるような衝撃の体験であり、だからこそ、美術史や音楽史のコンテクストを踏まえることのない人にまで、作品が到達するのである。/ブルースがイギリスの若者を虜にしたのは、体感的にその音楽にしびれたからである。そして、「カッコいい」存在は、社会の人倫の空白を埋め合わせるように、強い憧れと同化願望を引き起こすのだった。」 (カッコいいという評価は、作品の持つ魅力がその作品自体をはみ出して、鑑賞者に到達しているということであり、最上級の褒め言葉だと言える。しかし、だからこそ、その作品に精通している人にとっては、その魅力が言語化されることなく、「カッコいい」という一言でまとめられることにむず痒さを感じているようだ。) ○実在を追究しないことの自由 279.(滝でも、Y字路でも、温泉でも、鑑賞者がその意味を考えてしまうところ、画家である横山忠則さんは、ほとんど造形的な関心しか寄せなかった。アーティストにもいろんなタイプがあるのだろう。) 282.「(横山氏の寒山百得展の魅力は)全編に亘って表現された圧倒的な自由さである。しかもそれは、純粋に絵画的な自由である。ここには、フェミニズムもなければ、資本主義の暴走への批判も気候変動への警鐘もない。」 「あるということ(存在性)さえ否定して、寒山拾得を通じ、何もないということをいかに多様に美術的に表現できるかという問いだけがある。」 「勿論、現代アートが社会的問題に取り組むことを否定するつもりはまったくない。しかし、もっと他のところに、広々とした領域がまだ残されているということを、改めて、大きな喜びと共に理解させてくれる展覧会だった。」 ○領域としての黒 ──ヴァロットンの木版画 285.(ロマン派の絵画は、写真で表現できない印象を作り出すことができる。) 288.「木版画は、何もない白いカンヴァスと向かい合う油彩とは違って、最初はまず、黒い無の平面から出発する。そこに何かが潜んでいる。彫刻刀で削り取られ、白く浮かび上がってくるのは、そこから観念的に、デザイン的に個体性を与えられた存在である。」 ○ボードレールの女性観 ──その一元性と多元性 「生の必須条件=多様性」 (単一で変動のないものは生きることの基本を奪われている。) (美しい、とは、本能的な喜びを持って「美」と認識せしめている。) (ボードレールは、「閉じた二元論」二項対立と「開かれた二元論」最小単位の二元論の混在が認められる。) (美の創造行為は、多様性を流出(詩の場合は言語化)する行為(開かれた二元論)で、閉じた二元論は二項対立における矛盾のコントラストをレトリックとして用いられる。) 303.「ボードレールにとって、世界の持続とは、単線的な「進歩」ではなく、多様性に於ける「生命力の移動」の結果だった。」 (恋には、生命力の移動がなく、人間的結果的に多様性も生まれない。愛は、美や性欲を超えた生命の移動を孕むため、人間的多様性が生まれ、関係も持続する。愛とはつまりは慈愛であろう。) ○豊饒なるゲルハルト・リヒター展 ○愉しいル・コルビュジエ ○音楽も環境次第 (シュトックハウゼンの逸話からの気づき。芸術に限った話ではないが、被評価物である以上、評価者自身、およびその周辺の状態が大きく影響する。どれだけ良い音楽も体調が悪ければ、それどころではない。) ○「手書き」の文字と毛筆 ○「報酬性」と「懲罰性」 →(プロダクト・デザインについて) 319.「文学の世界では、人間について考えようとすると、/殺人という人間性の底の底から出発する習わしがある。」 (刑務所は、拷問ほど直接的ではないにしろ、忌避感情を催す懲罰性がある。) (人々は日常的に、粗悪なプロダクトに対して懲罰性を感じている。良いプロダクトからは報酬性を感じている。) (刑務所でもないのに、何に懲罰性を感じるのか。資本主義においてそれは、良いプロダクトを利用できない「貧困」に陥ってしまったことへの報いのためだとされる。) (懲罰性は、没個性的で普遍的であり、そんな懲罰性は私たちが個性的であることを妨害し続ける。マルクスの言う「労働の自己疎外」は資本家による搾取と言う観点で語られがちだが、実際は劣悪な労働環境の「懲罰性」による非個性化という観点も重要である) 321.「今日の刑罰観は、基本的に応報刑論ではなく、教育刑論である。「懲罰性」は、従って、本来、不要なはずであり、だからこそ、北欧の刑務所は快適な居住空間を整備している」 323.「刑務所の受刑者は、劣悪な建築とプロダクトに取り囲まれ、苦痛を感じる時間が長ければ長いほど、実際には、自分の犯した罪と向き合い、被害者の境遇を思いやる時間を減らされてしまう。」 (懲罰性は逆効果になることも考えられる。懲罰性により、受刑者の余白は奪われ、彼らにとっての喫緊の問題はプロダクトへの不満ばかりになってしまう。) (ただし、北欧の刑務所が快適であることは、北欧が公福祉国家であるからこそ成り立っている。福祉に不満の募っている現日本では、刑務所の設備を良くしようものなら、国民が生きているだけで受けている懲罰性への違和感から、「税金を無駄にするな」と批判されてしまうだろう。) 324.「デザイナーは、自らの創作物がユーザーの意識の外側に消滅する瞬間をこそ、追求すべきなのかもしれない。」 (懲罰性と報酬性、本稿では懲罰性について触れられていたわけだが、その対立にある報酬性は凡そ意識化では得られないのかもしれない。そもそも、懲罰性を感じないこと自体が、報酬となっているのかもしれない。) ---------------------- ○特別付録 ──弔辞 (純粋に「文学は何の役に立つのか?」という本書の一部として見ると、人の死に擬似的に立ち会えるというのは、文章ならではであり、そこから何を読み取れるかは読者の裁量にもよるが、ともかく、〆に文章のもつ特異性というものを改めて実感することができた。) ドナルド・キーンさんへの弔辞 328.「「日本人とは何か?」という問いは、所詮は粗雑な問いのように思います。もし一言で言えるのなら、/『日本人』という本を一冊書けば十分だったでしょう。しかし、同じ日本人とは言え、彼らは非常に異なった人間で、だからこそ、異なった二冊(以上)の本が必要だったのです。」 瀬戸内寂聴さんへの弔辞 大江健三郎さんへの弔辞 ---------------------- ○あとがき 338.「私は基本的に、反「自己責任」論者であり、また分人主義者であるので、小説に於いても、背景となる時代と社会環境を重視している。/小説の醍醐味が、まさに私たちが渦中にいる、まだよくわからない現実を捉えることにこそ在しているというのも事実だろう。」 339.「人間にとって、文学とは一体何なのか? 芸術とは何か? ーーこんな問いは、少し前までは、どことなく優雅なものであったが、今や、ほとんど切迫した生々しさを備えている。」
ひろきさんの感想・評価
物事を「役に立つか否か」で捉えてしまう 現代の寂しさと哀しさと。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 本書の結びにも触れられているように 芸術に関する営みや疑問は、元来、もっと優雅なものではなかったか。 情報に溢れ、時間に追われ、 不安に溢れる現代においては、いつからか文学も、それらを解消するための対象としての消費ばかりになってしまったのかもしれない。 本書は、文学の持つ「有用性」という点に重きを置く「読者の視点」と文学の持つ「価値」という点に重きを置く作家の両側面から文学を捉えようとする作者の試みによって書かれている。エッセイ集であるため、前後のつながりやハイコンテクストの読み取りに読解力を要するが、平野氏の、ひいては小説家の考え方や見方を側で感じることのできる本だった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 私の知識不足も相まって読了には時間を要した。短い文章は、具体説明や解釈を読者に委ねることが多く、それを掴み取ろうとするのは楽しかったが、いかんせん、量が膨大だった。
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