人間にとって科学とは何か
村上陽一郎
新潮社
2010年06月
概要
純粋な知的探究から発して二百余年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは?地球環境、エネルギー問題、生命倫理ー専門家だけに委ねず、「生活者」の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。
ステータス
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ひよさんの感想・評価
純粋な知的好奇心のために研究をするという学問観(「知識のための知識」)がプロトタイプの科学、社会からの要請に応える形で特定の問題を解決するために研究をするという学問観がネオタイプの科学という分類に基づき、我々は(自然)科学という学問にどう向き合うべきかを説いていた。 プロトタイプの科学が社会と没交渉的に、閉鎖的な共同体内で発展してきたことを指摘し、「黙って資金提供をしろ」といった姿勢に批判的でありつつ、短期的に「分かりやすい」成果をもたらすことばかりが学問の価値ではなく、知識を純粋に積み上げる創造的行為自体も人類の叡智に貢献しうる、という、人々の学問に対する評価軸を刷新するよう働きかける姿勢を取っていた。 しかし、そこで「研究者を特権的に扱い、資金提供をする側は非対称的な立場から歩み寄るべき」と極論に走るのではなく、「だからこそ、我々科学者はその研究の価値を理解してもらえるよう、狭い共同体から出て社会に歩み寄る努力をすべき。そして一般の人々はその研究に対する敬意を払いつつ、適切に意見や不安を科学者に述べて意思決定プロセスに参加できるよう、リテラシーを身につける必要がある」と言った柔軟な姿勢を取っていた部分に知的な節度を感じた。 ただ、プロトタイプな科学(実証科学)が「それ自体が独立した存在」として自律性を持ち、人類のコントロール外にまで成長してしまった世界大戦などの経験をどう捉えるべきなのかについて明確な指針を提示するなどの具体的で詳細な言及がなかったのが気になった。「知識のための知識」は確かに人類の叡智に貢献するが、それを美化し過ぎてはいないのか。なのである意味、そこを美化し過ぎている傾向が見られるという点では、純粋な興味と好奇心から手に負えない怪物を産み出してしまったシェリーの『フランケンシュタイン』の博士のような純粋さと危うさを持ってるようにも思えた。人類の叡智を越える科学技術が、人類、つまり科学者から生み出される可能性は十分ある。AI技術がいい例だ。その場合、科学者は「知識のための知識」を際限なく進めて良いのか?クローン技術だけではなく、その辺りの議論を混ぜてくれるとなおよかったなと思う(勿論昔の本なので仕方ないとは思うし、当時の文脈を知らないけど、2010年出版だから、AIの話は全く無かったわけではないと思うので、そこが残念)。
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