河伊アンダーグラウンド
アンダーグラウンド

アンダーグラウンド

村上 春樹

講談社

1999年02月

概要

1995年3月20日の朝、東京の地下でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか、62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。

ステータス

読んだ

河伊さんの感想・評価

めっっっちゃ面白かったな……いや面白かったというよりは興味深く勉強になった。 最初は地下鉄サリン事件の被害者の証言ファイルとしか思ってなくて実際話のほとんどはそうなんだけど、最後に持ってこられた村上春樹のエッセイ(?)がめちゃくちゃ面白い。バブル崩壊後、世紀末の暗澹とした空気の中で起こった地下鉄サリン事件を通して、我々現代日本人の自我の危うさとやらを上手に説明してくれた。 まず話の主軸である地下鉄サリン事件の被害者の証言は、伏線回収される快感が味わえる。例えば 「私は倒れている女の人を介抱しているサラリーマンを見た」 「私は倒れている女の人を介抱した」 「私は倒れていたところをサラリーマンに介抱してもらった」 とその場にいた全員が登場して「お前さっきの人が話してたあの人じゃん!」と勝手に盛り上がった。その他にも同時に同じ場所にいた人たちが何組かいる。 証言内容も当時まだ生まれてなかった私にとっては新鮮で、知らないことばかりだった。事件の地下鉄はかなり早めのダイヤルだから、乗客のほとんどが埼玉県から通勤する人なんだよね。だいたいの人が東京は土地が高いから郊外の土地を買ってマイホームを建てたと話している。 それぞれのバックグラウンドがあるから同じ話は一つとしてないけれど、皆埼玉都民だから話す内容が似たりよったりになってしまって、正直最後の方は飽きてた。けれど最後の証言者は実際の被害者ではなく、被害者遺族だったから涙腺が緩んだ。これ因果関係繋がってないな? うーんと、実際に被害に遭った方の話は興味深いけれど想像つかなくて共感しづらいのだ。だが大切な人を失う悲しみや辛さは容易に想像できるから感情移入しやすいのだろうな。旦那を失って遺された母子なんて話聞かなくても涙出そうだもん。 それで、最後の大トリが村上春樹のエッセイなわけよ(エッセイで合ってあるのかわからないけれど、エッセイと呼ぶわ)。 自由と独立と己とに満ちた現代に生きる我々は皆この孤独に耐えなければならない ↑は私が大まかに覚えていた夏目漱石の『こころ』の一節である。正確には「自由と独立と己とにみちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの寂しみを味わなくてはならない」だったが、意味はほぼ合っているので許してほしい。 明治の人たちは突然与えられた自我の確立にとても苦労したと思う。今まではほぼ同じ場所から動くことなく、周りの人と同じ格好、同じ言葉、同じ仕事をして生きて死ぬだけだから、自我がないとは言わないが権力により消されていた。全く同じではないが、周りに同じような考えを持つ他人がたくさんいたんだろうな。 それが急に緩められ、海外の新しい思考がどんどん入ってきて「今までの考えは間違っていた。早く新しいのに変えろ」って強要されるんだから、明治の知識人は全員アイデンティティクライシスみたいなもんよ。 夏目漱石は明治維新で一気に日本を変えようとしちゃったから人はそれについていけてないみたいなこと言っていたと思う(『現代日本の開化』だっけ? 合ってるか自信無くなってきた)。 そう、それでさっきのうろ覚え『こころ』の一節に話は戻る。自由の下自我を確立すると、人はどうしても孤独になってしまうわけですよ。なぜならば自分を完璧に理解してくれる他者など存在しないのだから。明治前の社会ならば、周りには自分と同じ境遇の人間がたくさんいて、孤独を感じることはあまりなかっただろう。孤独は近代社会が齎した弊害であり病だろう。 戦後の現代社会になっても、自我の苦しみはある。村上春樹が言っていたのは、自我を作りだしても社会に合わせて修正される苦しみがあるから、いっそ自我など無くして他者に一任してしまったほうが楽、故にオウムは広がりサリン事件は起こったということだった。 人びとが革命やらと運動やらで手に入れた自我確立の権利は人々を苦しみとなり、自我を放棄する人が出ちゃったわけだ。あれこれ自分で考えず、他人に選択を任せると楽だもんね。それだけがオウムの広がりの原因じゃないだろうが、なかなか的を射た意見だろう。 そして村上春樹が言っているのは、オウムは散々悪として報道されているが、正義とされる我々の側はこの暴力事件に対するものを何か提示しないのかということだ。オウムは世界救済という物語で人々を動かした。事件後報道によりそれは悪とされてしまったけれど、世界救済を上回る物語を我々は正義として出さなければならないのではないか。 私が思い出したのは野口裕二『物語としての自己』。それにあるように物語ることで自己は確立される。例えば同じ体育祭という出来事であっても、「体育祭を楽しめた明るい私」や「体育祭つまらなすぎて馴染めなかった私」など、本人の語りによって自己はいかようにでもなる。 地下鉄サリン事件も同じ、オウム側からの証言は裁判でいくらでも聞くけれど、被害者側からの証言はまとめられない。だから村上春樹は自分勝手やろうとした……らしい(ちょっと記憶が曖昧になってきた) 村上春樹はオウムって我々が普段意識していないけれど潜在的に持っている危うさが表面化したものだから、見ると嫌悪感や後味の悪さを感じるって書いている。 つまりそれは思考停止して他人の考えに乗っかり何でもやってしまう(見苦しい宗教活動やそれこそ犯罪)ことなのではないかと思う。人間誰しも、100%完璧に自分の意志で行動しているとは言えないだろう。ましてや事件当時のバブル崩壊後、世紀末の不安の中でこれから先どうすればいいのかと考える人々は、その思考を止めてしまったほうが楽だったのだろう。 せっかく手に入れた自由な自我を、現代の我々は敢えて手放そうとしている。しかしそれでは動物と変わらないのではないか。むしろ動物のほうが高度な生き方をしているのではないか。苦しみに耐えてでも自由な自我を保つことが、人間のあるべき姿だと思いたい。

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