(考察⚠️自分用) 1) 「自分らしさ」の神話と「自己肯定感」の現代性について 自己のあり方を相対化する話について、以下のように感じた。 いつでもどこでも変わらない「確たる、唯一の自分らしさ」が自分の内奥に眠っており、それを「再発見」しなくてはならない、といった言説の現代性を認識できた。それはエリクソンの発達心理学モデルを基盤としている。心理学は、さまざまな特定の歴史・文化的文脈に「埋め込まれて」その学説を唱えるが、その「ナマモノ」な性質を透明化しており、あたかも「自明な真理」かのように認識され、人々に影響を及ぼしている。つまり、この「唯一の自分らしさを軸に自己物語を構築しなくてはいけない」という命題は、(前期)近代という歴史性の帰結であり、現代社会に適してるとは言えないし、本来ならば「必ず達成されなくてはいけない使命」でもない。しかし、私たちはそれを「人類普遍の命題」だと思い込み、それが達成されない自分の現状ー様々な場面に適応した、多元化された自己のイメージを作り出す自分のあり方ーを「本当の自分ではない」と感じ苦しんでいる。 加えて、この「唯一の自分らしさを肯定し、自分を愛さなくてはいけない」という言説がここに付随するわけだが、それは「個としての自己」を確立し自らの手で人生を構築していかなくてはならない後期現代という社会構造の中で生き抜くために、社会から「要請」された心のあり方であり、同様に、極めて現代的な現象である。この言説の効果を強化するように、さまざまなテレビやYouTube、書籍などで「自己肯定感」に関する語りが日々生産されているが、自己というものはそもそも全面的に肯定しないと「不幸」で「不快」なものなのかは、歴史性に開かれた問題だ。むしろ、フレキシブルな現代社会においては、状況に合わせたそれぞれの自己を構築し場面場面での深い関係性を楽しむ方が理に適ってるとも言えるし、それを「偽りの自分」であると自責する必要もないと感じ、少し楽になった。 また、「自己」をどう肯定/否定するかは内面化された特定の「ナマモノ」の基準を参照して判断しているに過ぎず、どう自分と向き合い「好き/嫌い」を選ぶのかは自由に選べる問題であるし、そもそも「選ばなくては」という感覚を突き放して距離を取っても良いのだと感じた。 2) 近年の自己責任論的セカンドレイプの論調と、不平等な「自己選択の自由」が生まれた後期近代における「自由な自己の構築」がもたらすジレンマについて 現代社会の私たちは、アクセス可能になった専門知を用いて、「伝統的共同体」ひいては「前期近代的な社会の仕組み」における慣習・規範を、「歴史性のあるナマモノ」として相対化することが可能になっている。これは、「女性らしさ」に関する「ナマモノ」の価値観を「絶対的な真理」として従わざるを得ない環境から解放され、それらを批判するフェミニズムを可能にした。 また、歴史的・地域的に限定された「(消費期限のある)規範」に自己のあり方を盲目的に委ねるのではなく、「自己責任」として、資源を活用して「自由」に、一個の「事業家」として自分の人生を形成することも可能にした。 しかし、この「自己の人生を形成するプロジェクト」は果たして本当に全ての人に対して「自由」であり、「平等」なものなのだろうか?近年、SNSなどでよく見かける、権力性を持つ性的関係の被害者に対する「でも自分で選んだんだよね?」と言ったセカンドレイプ的論調は、この後期近代がもたらした「自由な自己の形成」 論の「穴」に足をとられているのかもしれない。 例えば、知らずに性風俗産業に取り込まれたり、グラビアアイドルとして生きる選択をした上で性的に搾取され、傷ついた女性の記事に対して、「でもそれは大人としての自分が自ら選んだ結果でしょ?」「売れなかったから逆恨みして被害者ぶってる」と言ったSNSでの反応が心に引っかかっている。おそらくこれは、「誰もが前近代的なしがらみから解放され、慣習に従うことを強制されずに生きられる世の中で、わざわざその世界に入ったということは、そこで受けた傷も、「自分で思い通りの人生を構築できる、責任のある現代人」としての当然の帰結であり、自己責任だ」という思考に基づいているのだろう。しかし、この理論は後期近代的自己認識が隠しもつ「穴」に気がついていないのではないか。 その穴とは、「伝統的秩序」が失われ、日々あらゆる状況が変化する現実 - まさにliquid modernity といえるもの - においても、経済的、文化的資本・性別・人種による不平等は依然として残っており、その不平等は、「自由な選択と自己形成」における「資源(resources )」の欠如として顕在化する、という視点である。現代社会において、「思い描く自己実現」のための潤沢なリソースを持つのは依然として「強者」側であり、「周縁化」された存在はそのようなリソースが枯渇しており、それ故に「自己実現」にまで這い上がれないし、あるいは「自分が巻き込まれようとしている自己実現」にどのような危険性があるかを判断するリソース自体が枯渇しているために搾取される構造に陥りやすいという点だ。「後期近代における新自由主義的な自己実現論」は、社会的不平等を解消しないまま発展したものであり、その「自己実現」のゲームは社会的不平等をむしろ拡大する形で運営されている。これは、専門知により「前近代的なしがらみ」を相対化し、女性のあり方を抑圧してきた社会構造を批判するフェミニズムと矛盾するものではない。 「強者」側は、あらゆる自己実現の可能性を、その危険性についてを含めて、入念に精査し「己の力」で実現するリソースに富んでいるため、前述のグラビアアイドルの女性の発言に対しても「そんな危険性は前からわかっていたはず。それを踏まえてあなたは自分で自由に選択した」と糾弾できるのだと思う。だがそれは、後期近代がもたらした社会構造の歪みの恩恵に立つ側の意見であり、私たちは平等な自己実現ゲームの中に生きているわけではない。そこら辺を混ぜてしまっているが故に、「フェミニズムで女性は自由に自己実現ができるようになったはずなのに、自ら危険な「自己選択」をしてしまった女性が被害者ぶっている。」というセカンドレイプ的論調が生まれているのだと認識した。 フェミニズムが解放した「選択の自由」が新自由主義と結託ふると、女性を再び罰する道具になるということであり、市場型規範を押し付け、被害の構造を不可視化して個人の失敗に回収し、加害者や制度を免責する、という点において、セカンドレイプなのだと思う。
元の読書記録を見る社会は「私」をどうかたちづくるのかの感想・レビュー
牧野 智和
筑摩書房
ISBN: 9784480685162
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